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No.77 吉田神道(唯一神道)とは何か

室町時代の後期、京都の吉田神社の吉田兼倶が始めた神道の説。神道を根本とし、仏教や儒教より上に置いた。江戸時代には吉田家が全国の神職に許状を出し、大きな力を持った。

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調べた日
2026年10月6日
分野
歴史

本文と出典

吉田神道(よしだしんとう)は、室町時代の後期に、京都の吉田神社の神職、吉田兼倶(よしだかねとも、1435〜1511年)が始めた神道の説です。 自らの神道を、ほかに比べるものの無い神道という意味で「唯一神道」と名づけました。 【成り立ち】 吉田家は、古くから朝廷で亀の甲羅を焼く占い(亀卜)を受け持ってきた卜部氏の流れをくむ家です。 応仁の乱で京都が荒れ、朝廷のまつりも衰えるなか、兼倶は文明16年(1484年)、吉田山に大元宮(だいげんぐう)を建てました。 大元宮には、全国の式内社の神々をまとめてまつり、一か所で日本中の神々を拝める場としました。 【神道を根本に】 それまでの本地垂迹説では、仏が本当の姿で、神は仮の姿とされていました。 兼倶はこれを逆にし、神道が根本で、儒教は枝葉、仏教は花や実だと説きました(根本枝葉花実説)。 兼倶はこれを聖徳太子のことばとして広めました。 【当時からの批判】 兼倶は、自分の説を権威づけるために古い書物を作ったとされます。 延徳元年(1489年)には、伊勢神宮の神器が吉田山に降ったと主張し、伊勢神宮と争いになりました。 こうしたことから、吉田神道には当時から批判もありました。 【江戸時代の吉田家】 寛文5年(1665年)、江戸幕府は「諸社禰宜神主法度」を出し、神職は吉田家の許状を受けることとしました。 これにより、吉田家は全国の神社と神職をまとめる大きな力を持つようになりました(白川家や伊勢などの例外もありました)。 【参考にした資料】 『神社に秘められた日本史の謎』(新谷尚紀)、『図解 神社入門』(渋谷申博)、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(島田裕巳)、『神社の系譜』(宮元健次)、『神道と神社の秘密』(歴史研究会)

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