No.71 明治末の神社合祀と、南方熊楠の反対
明治39年(1906年)から、国は小さな神社を合わせて数を減らす神社合祀を進め、約19万社あった神社は大正の初めに約12万社まで減ったとされる。南方熊楠は、森と地域の信仰が失われるとして強く反対した。
本文と出典
明治の終わりから大正の初めにかけて、国は全国の小さな神社を合わせて数を減らす「神社合祀(ごうし)」を進めました。
【何が行われたか】
明治39年(1906年)の勅令などをきっかけに、おおむね一つの村に一つの神社にすることを目標として、村々の小さな神社が近くの神社にまとめられました。
神社の費用を国や地方がまかなえる形に整え、神社を国の管理のもとに置くねらいがあったとされます。
合祀された神社の森は切られ、建物は壊されることもありました。
全国に約19万社あった神社は、大正2年(1913年)ごろには約12万社まで減ったとされます。
【県による違い】
どこまで合わせるかは府県の知事に任されていたため、県によって大きな差が出ました。
三重県や和歌山県では特に激しく進められました。
新潟県などでは合祀があまり進まず、いまも神社の数が多く残っています。
【南方熊楠の反対】
和歌山県田辺市に住んでいた博物学者、民俗学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)は、神社合祀に強く反対しました。
神社の森には貴重な植物や生き物がいて、その森が切られてしまうこと。
地域の人々が長くまつってきた信仰や、村の結びつきが失われること。
熊楠はこう訴えて、新聞への投稿や意見書で運動を続けました。
田辺湾の神島(かしま)の森は、熊楠らの運動によって守られました。
熊楠の運動は、日本の自然保護運動のさきがけとしても知られています。
【参考にした資料】
『神社の解剖図鑑』(米澤貴紀)、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(島田裕巳)、『図解 神社入門』(渋谷申博)、『靖国神社』
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